2010年1月24日日曜日
板垣退助ー自由民権の指導者
自由民権運動の指導者は板垣退助と言う人だった。
板垣は1837年5月21日、高知城下町に生まれた士族だった。
軍隊に関することを学ぶため、1860年ごろ、江戸へいった。その後、土佐大名の山内豊茂(やまうちとよしげ)の側用人(そばようにん)として働いた。
1868-1869年に、戊辰戦争で戦った。戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは明治維新の前の幕府軍隊と天皇を応援する侍の間の戦争だった。
戊辰戦争が終わって、板垣は新明治政府に入った。政府の有司(ゆうし)として、「版籍奉還」(はんせきほうかん)や「廃藩置県」(はいはんちけん)などの改革にさんかした。
版籍奉還とは全部の藩の範囲を再び天皇のものにする、そして廃藩置県とは藩制度を 県の制度を設立すること。両方の改革は1869年に起こった。
1873年に板垣は政府を退くした。なぜなら、征韓論の結論を納得出来なかった。征韓論と言うのは、日本の軍隊を韓国へ行かせる計画に関する政府内の議論のことである。政府は当時の日本は戦いではなく、様々な改革が必要で結局、軍隊を行かせるのをやめた.こんな決定を納得できなくて板垣退助とほかの六人は政府を退くした。
1874年1月、板垣たちは「民選議院設立建白書」(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)と書いて政府に提出した。「民選議院設立建白書」(建白書とも呼ばれる)は民権家の最初の種類でした。この種類で民権家たちは政府を厳しく批判し、民権家の考え方を紹介した。民権家にとって人は皆、身分制度、出身と学歴にもかかわらずの社会生活や母国の政治に影響を及ぼす権利がある。
「建白書」は政府に無視されたが、自由民権運動は活動を続けた。
1880年に自由党と言う日本の最初の政党が成立された。
1881年に、自由民権運動の発展にとってとても大きな出来事が起こった。講座の後で板垣退助が右翼団体の人に攻撃され、「板垣は死すとも自由は死せず」と言う名言を言った。その出来事の後、自由民権運動は士族だけでなく民衆にも流行した。
板垣退助は1900年まで自由党の指導者として活動して、政治生活をやめた。1911年に東京でなくなった。
単語リスト:
指導者ーしどうしゃ-leader-przywódca
板垣退助ーいたがきたいすけ-Itagaki Taisuke
土佐城下町ーとさじょうかまち-Tosa castle town-miasto przyzamkowe Tosa
大名ーだいみょう-daimyo
山内豊茂ーやまうちとよしげ-Yamauchi Toyoshige
士族-しぞく-resign-zrezygnować
側用人ーそばようにん-advisor-doradca
戊辰戦争ーぼしんせんそう-The Boshin War- Wojna spod znaku zodiakalnego
有司ーゆうし-government official-członek rządu
版籍奉還ーはんせきほうかん-return of the domains lands-zwrot rejestrów hanowych
廃藩置県ーはいはんちけん-abolition of the han system-zniesienie systemu hanów
改革ーかいかく-reform-reforma
征韓論ーせいかんろん-debate about Korea- debata w sprawie Korei
退くーしりぞく-resign-zrezygnować
民権家ーみんけんか-member of the Freedom and People Rights Movement-działacz ruchu na rzecz praw i swobód obywatelskich
建白書ーけんぱくしょ-name of the document-nazwa dokumentu
自由党ーじゆうとう-Liberal Party- Partia Libralna
名言ーめいげん-famous words-słynne słowa
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