2010年1月24日日曜日

目的を果たす方法

自由民権運動の主な目的は平等な社会を作ることだった。民権家にとって自由な人とは身分制度や学歴のもかかわらず、国の社会や政治に影響を及ぼす権利がある人のことだ。それを事実にするため、自由民権運動のイデオロギーを士族の間に流行するだけでなく、民衆にも理解させるようにすることは必要だった。
イデオロギーを紹介する方法はいくつかあった。一番効果的な方法は学校を開設することだった。その学校では民権家の考え方を学歴を持つ民衆に紹介するだけではなく、出来ない人に読むや書くことも教えられた。
1889年に成立された憲法と一年後設立された国会は自由民権運動の一番大きな成功だと思われている。運動が起こらなかったら、藩閥専制は何年も続いたかもしれない。だが明治憲法は自由民権運動は目指したことから遠いものだった(投票権利をもらったのは一番大きい収入を得た2%の男性だった)運動は何の意味もなかったと言う意見もある。

板垣退助ー自由民権の指導者


自由民権運動の指導者は板垣退助と言う人だった。
板垣は1837年5月21日、高知城下町に生まれた士族だった。
軍隊に関することを学ぶため、1860年ごろ、江戸へいった。その後、土佐大名の山内豊茂(やまうちとよしげ)の側用人(そばようにん)として働いた。
1868-1869年に、戊辰戦争で戦った。戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは明治維新の前の幕府軍隊と天皇を応援する侍の間の戦争だった。
戊辰戦争が終わって、板垣は新明治政府に入った。政府の有司(ゆうし)として、「版籍奉還」(はんせきほうかん)や「廃藩置県」(はいはんちけん)などの改革にさんかした。
版籍奉還とは全部の藩の範囲を再び天皇のものにする、そして廃藩置県とは藩制度を 県の制度を設立すること。両方の改革は1869年に起こった。
1873年に板垣は政府を退くした。なぜなら、征韓論の結論を納得出来なかった。征韓論と言うのは、日本の軍隊を韓国へ行かせる計画に関する政府内の議論のことである。政府は当時の日本は戦いではなく、様々な改革が必要で結局、軍隊を行かせるのをやめた.こんな決定を納得できなくて板垣退助とほかの六人は政府を退くした。
1874年1月、板垣たちは「民選議院設立建白書」(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)と書いて政府に提出した。「民選議院設立建白書」(建白書とも呼ばれる)は民権家の最初の種類でした。この種類で民権家たちは政府を厳しく批判し、民権家の考え方を紹介した。民権家にとって人は皆、身分制度、出身と学歴にもかかわらずの社会生活や母国の政治に影響を及ぼす権利がある。
「建白書」は政府に無視されたが、自由民権運動は活動を続けた。
1880年に自由党と言う日本の最初の政党が成立された。
1881年に、自由民権運動の発展にとってとても大きな出来事が起こった。講座の後で板垣退助が右翼団体の人に攻撃され、「板垣は死すとも自由は死せず」と言う名言を言った。その出来事の後、自由民権運動は士族だけでなく民衆にも流行した。
板垣退助は1900年まで自由党の指導者として活動して、政治生活をやめた。1911年に東京でなくなった。

単語リスト:
指導者ーしどうしゃ-leader-przywódca
板垣退助ーいたがきたいすけ-Itagaki Taisuke
土佐城下町ーとさじょうかまち-Tosa castle town-miasto przyzamkowe Tosa
大名ーだいみょう-daimyo
山内豊茂ーやまうちとよしげ-Yamauchi Toyoshige
士族-しぞく-resign-zrezygnować
側用人ーそばようにん-advisor-doradca
戊辰戦争ーぼしんせんそう-The Boshin War- Wojna spod znaku zodiakalnego
有司ーゆうし-government official-członek rządu
版籍奉還ーはんせきほうかん-return of the domains lands-zwrot rejestrów hanowych
廃藩置県ーはいはんちけん-abolition of the han system-zniesienie systemu hanów
改革ーかいかく-reform-reforma
征韓論ーせいかんろん-debate about Korea- debata w sprawie Korei
退くーしりぞく-resign-zrezygnować
民権家ーみんけんか-member of the Freedom and People Rights Movement-działacz ruchu na rzecz praw i swobód obywatelskich
建白書ーけんぱくしょ-name of the document-nazwa dokumentu
自由党ーじゆうとう-Liberal Party- Partia Libralna
名言ーめいげん-famous words-słynne słowa

2010年1月14日木曜日

 自由民権うんどうとは明治前半期に起こった政治的で社会的な運動である。この運動の主だ目的は民衆が国家の政治にもっと大きな影響を当たって参加するができるようにすること。それを果たすために自由民権運動は憲法設立と国家会議を成立するのを目指した。
 当時の明治政府は「藩閥専制」と呼ばれて、立憲政体からとても遠いものだった。実権を持ったのは西南雄藩出身の高官だった。西南雄藩出身の高官というのは薩摩、土佐,肥前、長州藩出身侍のことである。その四つの藩は戊辰戦争と呼ばれて1868年から1869年までかかった、幕府軍隊と天皇の軍隊の間でさいごの戦いで一番大きな役割をはたした。

 1886年末頃制すの激しい圧力で終息された。1889年に作られた明治憲法は自由民権運動が目指したのから遠いものだった。そのため、自由民権運動は失敗だったと思われている運動が起こらなかったら、何の変化もなくて、藩閥専制が何年つずくかもしれないという考え方もある。

自由民権運動の指導人物像と目的を果たす方法は次の投降で書かれている。

単語リスト:

民衆ーみんしゅうーpeople-ludzie, społeczeństwo
藩閥ーはんばつ-fighting domains-walczące hany
戊辰戦争ーぼうしんせんそう-the boshin warーwojna ery boshin
実権ーじっけん-control

参考文献:
稲田雅洋 「自由民権運動の系譜」